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ベルリン会議以降の19世紀後半

ベルリン会議以降の19世紀後半、オスマン帝国をめぐる列強の関係は変化した。ロシア皇帝はベルリン会議でのサン・ステファノ条約の修正を不服として三帝同盟を脱退し、ビスマルクの巧みな外交によって孤立させられていたフランスと徐々に接近する姿勢を見せた。ドイツはオーストリア・ハンガリーに接近し、1879年に2国間に同盟が結ばれた。またドイツはオスマン帝国に友好的であり、両国は親密な関係を築いた。ドイツはオスマン帝国の軍事と財政の制度改革に協力し、そのかわりにバグダード鉄道の敷設権と商業上の特権を認められ、帝国内の重要な経済市場に参入した。

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このような傾向は以前のオスマン帝国にとって重要な同盟国であったイギリスとドイツを、オスマン帝国領内のさまざまな利権を巡って対立させることとなった。一方でイギリスはとくにエジプト以南のアフリカ分割問題を巡って対立していたフランスとは徐々に和解し、両者は1904年に英仏協商を結んで協調関係に入った。ロシアもイギリスに接近し、1907年に両国は英露協商を結び、英仏露の三国は三国協商と呼ばれる協調体制を形成した。

1908年、「統一と進歩委員会」が中心となって、専制的なオスマン皇帝アブデュルハミト2世に対する青年トルコ人革命がおこった。1909年にはアブデュルハミト2世は廃位され、メフメト5世が即位したが、彼は憲法に忠実である反面、前帝と比べると政治に無頓着な君主であった。さまざまな改革がおこなわれたが、帝国内では社会不安や混乱が続いた。

青年トルコ人革命後の憲法改正で、地方の州に大幅な自治が認められることになった。オーストリア・ハンガリーは、ベルリン会議以来ボスニア・ヘルツェゴビナを管理下においていたが、自治が認められれば二重帝国の支配に批判的なセルビア人がボスニアの州議会を掌握し、自国の権限が脅かされると危惧した。そこでオーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナの保護が同地域に経済的な安定をもたらすとの主張に基づいて、同地域を併合した。

併合は「ボスニア危機(併合危機)」と呼ばれる外交紛争を招いたが、最終的にオーストリア・ハンガリーがオスマン側に補償金を支払うことを約束し、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアに併合された。このとき、オーストリアはロシアに対して、ロシア軍艦のダーダネルス海峡通航権が認められるのを支持すると約束し、ロシアの支持を取り付けた。そこでロシアはオスマン帝国にダーダネルス海峡通航権を請求したが、イギリスとフランスの反対にあって頓挫したため、結局オーストリアの約束はロシアに何の益ももたらさなかった。

併合がオスマン帝国に認められた後も、セルビアはオーストリア・ハンガリーに頑強に反対した。セルビアはロシアに支援を求めたが、ロシアは日露戦争で敗北を重ねて疲弊していたので、これに応ずることができなかった。ドイツはこの情勢を見てオーストリア・ハンガリーを支持し、イギリスとフランスは無関心であった。孤立したセルビアは、やむをえずボスニア・ヘルツェゴビナの併合反対を取り下げた

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2009年04月25日 11:49に投稿されたエントリーのページです。

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